雨、昨日の夜、東京

最近太陽を見ていないからかうまく息ができない。

終わりのない曲がすきでぐるぐると聴き続けている。BlackbirdにIn My Life 、Strawberry Fields Forever、 ForevermoreにRoam Around。終わらない。プレイリストに混ぜ込んでぐるぐる、ぐるぐると同じ景色を歩き回っている。何者にもなれないわたしが、変わりもしない景色をきれいだきれいだと言い続けている。

今日、めちゃくちゃ凪。

何も自分の感情の内側に入ってこなかった。

やらなきゃいけないこともたくさんあったはずなのにすべてを後回しにして布団にいる。

飛び立つべき空も知らないのにその瞬間を待っている鳥のように、羽を閉じて暗闇に身を紛れ込ませて、静かに息をしている。相変わらず起きるべきではない明朝に目がさめるし、夜も寝つけないことも多い。輝くような微睡がほしい。そのまま起きないでいいなら、その方がいい。

絶対的なことなのに時々忘れそうになってはっとする。

わたしはわたしの物語の主人公であること。

語弊を恐れずに言うのならわたしはわたしがしあわせだったらあとはどうでもいい。ただわたしのしあわせはわたしだけのしあわせでは成り立たないから厄介で、わたしのしあわせのためにわたしのしあわせが蔑ろになってしまう瞬間がそれなりにあってむずかしい。わたしのしあわせ以外ぜんぶ余談だとわりきれればいいのに。

明日、現時点で、わたしが生きる世界で、いちばんきれいな人が板の上に立っている様をこの目に映してしまうらしい。

板の上というのはどうにも不思議な空間で、ライブのステージともコンサートのバミリの上ともぜんぜん違う。

立っているのが「その人」ではなく「その人が演じる誰か」なのだからあたりまえではあるのだけど。あの不思議な空間に、わたしの世界の神さまが立つ。花火が上がるわけでもなく、一生かけて守りたい特別な場所でもない。ただ、借り物の板の上に、その人ではない誰かが立つ。でも、その世界の秘密を守りたい。大人は秘密を守る。世界の秘密を。

なにもかもを手放して、きらめきのまどろみだけを抱いて秘密を共有できたらいいのにね。

っていうわたしの、後悔と未練のはなし。

『幽劇』初日によせて。

世間でいう立派な大人かもね

まぶたをあげる。

休みの日なのに8時には目がさめてしまった。つい何週間か前までは短針が12を回ってもまだ起きなかったというのに。とりあえず身体を起こして、瞬きをする。

カーテンを開ける。

引っ越して大きくなった窓から見える少し近くなった空が青で自然と口角があがる。今年も晴れ女だ。目がさめてから顔を洗うまで、眼鏡をかけないから朝イチの空はいつも鮮明ではない、から遠くの電線のその奥に、風船が見えた気がして少し笑う。何分か前に見た青いアイコンの中での景色だ。

窓を開ける。

レースのカーテンに潜って、不鮮明な世界のまま鍵を下ろして少し重たい窓をひく。途端に土曜の朝の空気に乗って、隣家のコーヒーの香りが流れ込んでくる。ひさしくコーヒーを淹れてないな、と思いながら外を一瞥して息を深く吸う。吐き出した息は昨日のものとは全然違う。

蛇口を開ける。

浄水ポットの水が足りないことに気づける余裕はある。余裕がなくなると水がいつもないし足の爪が伸びっぱなしになった。去年の夏の話だ。今は大丈夫。水が落ちるまでにすこし、時間がある。浄水ポットを定位置に戻して顔を洗う。柔軟剤の香りがする手ぬぐいに顔を埋めて、それだけでいいじゃないかとすら思う。

ふたを開ける。

平日の朝はコーヒーをゆっくり淹れられる時間をまだ作れていないから、もっぱらドリップは週末の朝のたのしみになっている。そういえば毎朝窓を開けてもコーヒーの香りがしたことはなかったから、どこかの誰かも同じなのかもしれない。まだ運命のミルに出会えていないから、今年は出会いたいな。フィルターにコーヒー豆を入れて、お湯をすこしずつ、くるくると注ぐ。ちいさく、ゆっくり、まあるく。そうやって生きてたい。

コップを空ける。

コーヒーはすっかり飲みきってしまって、ぼんやりと外を眺める。ベランダでコーヒーを飲むのは朝でも夜でもめちゃくちゃ「いい時間」を過ごせる。こうやってすこしずつだましだまし、甘やかしながらでもわたしは生きている。いいと思う、それで。

袋を開ける。

誕生日プレゼントが届いた。母から。布団カバー。白と黒の。すきなブランドの。明日の朝付け替えようと思う。すべすべのシーツ。手紙はない。いつもどおり。大切なことは紙に残すなって教わった、残しても自分の手で無に帰すのがルールだって。わたしの日記はいつまでも増えない。

瞳を閉じる。

いろんなことが浮かぶ。今日のこと、先週のこと、先月のこと去年のこと。その前も、昔も。見えないのはこれからだけで、あんしんする。わたしはもしタイムマシーンがあっても過去にも未来にも行きたくなくて、強いていうなら「あの時のあれをもう一回見たい、食べたい」とかで、ぜんぶ、大丈夫、これまでもこれからもぜんぶわたしなので大丈夫です、と思っている。

いろんな予想できないこと、予想外のこと、想像以上のこと、ほんとにいろいろあったけど、今こうして立って、歩いて、生きてるから、大丈夫、です。

いくつかパラレルワールドは閉じてしまったし閉じてしまうし閉じていってしまうんだろうけど、わたしにはわたしがいるから大丈夫。

みんな、わたしを大丈夫にしてくれてありがとう。サイコーの運命です。もうしばらく運命につきあってください。

扉を開ける。

玄関を開けて、外に出る。相変わらず空は明るい。わたしの未来のしあわせは、わたしがどうにか育てていくので、大丈夫。ぜったい、大丈夫だよ、未来のわたし。

23歳、まあまあ素敵に、けっこう平和に、わりと元気に、適度に適当に生きていこうと思います。

Just only stars blinking always breathe in …?

春のはじめを小指で手繰る

 

 

(前編ネタバレがあります!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

「ぼくたちの国の、神様の、子供」

わたしの中の国の、神様の子供がこれを言う、もう、これに尽きる

 

 

***

 

 

『セッション』のターンめっちゃよかった…!

 

将棋のターンでしかナレをいれないのすごくよかった

 

「生きるため」の最初の選択でうそをついたから、誰かが生きるためにして掃除もゴミ捨ても飲み食いにも興味がない

だから、自宅がどれだけ乱雑であろうと、集合玄関に落ち葉がたくさんあろうと、無関心、気づいてても興味がない

 

ただ川を渡るために橋の上を歩く、来た道を振り返る、このシーンを単音のピアノだけで表現したのはほんとすごい、音楽は菅野祐悟

 

今まで蔵之介に興味なかったけどいちばんを争うくらいよかった

 

たくさんの大人がいろんな角度から零くんを生かそうと見ているのに気づいていない、その目は死んでいる、ハイライトはない。だんだん気づいていって目に光が灯る

 

幼少期のシーンには必ず光の玉がある、まるで寄り添うように、支えるようにそばにある

 

背中、背中を背もたれに縫い付けられている感じだんだんと、ちくちくと縫い付けられて行く

圧がすごい、登場人物全員から「生きる」「生きてやる」「生きている」という圧がすごいから、それにだんだんと打たれていく

 

ごはん、食べることは生きること

唯一、食べるシーンがないのが宗谷冬司だ、飲むことすらしない

「気づきませんでしたか」「美しかったですね」たった二言で物語の全部を持っていってしまった

美しい、うつくしい、か

 

 

・・・

 

これが完成披露試写会で見た後、メトロに乗ってカカカカっとフリックしていたこと、なんだけど思い出すだけで泣きそうだ。

 

わたしは映画に「生きること」を見つけるのがすきで、そういうシーンやカットがうまく構成されている作品がすきなのだけど、『3月のライオン』は全編通してそれだった。「生きてない」シーンが、ない。

 

もちろんそれは人の営み、生活という点でもそうだ。上にも書いたと思うけど「食べること=生きること」という最大の方程式がこれほどまでに意味を持っているの、ジブリくらいしか出会ったことない。だって零くん、ひとりじゃちゃんとご飯食べないから。

でも川本家はご飯を与えるためだけの存在ではない。きちんと命の恩人で、きちんと零くんの人生の登場人物だ。「生きること」を教えてくれるひとたち。

 

教えてくれる、と言えば林田先生なのだけど、彼は彼でたくさんのことを教えてくれる。もちろん教師だから、勉強とか単位とか、そういう通り一遍のことはもちろん、零くんの人生においての優先順位をきちんとつけられるようにストレートな"言葉"で教えてくれる。導いてくれるひと。

 

零くんは当時、将棋でつよくなることしか生きる道を見つけられなかった。だから感情表現も言葉も、だいたい必要な時にしか充足してない。だからといって乏しいわけではない。でもそのまま、生きてこれたのは将棋で、盤の上で、たくさんの大人たちが零くんへ、たくさんの言葉を向けてくれたからだ、とおもう。零くんを、きちんと棋士として認めてくれているから、零くんがそこに存在していていいのだと、みんな一手一手で伝えてくれたから零くんはちゃんと道を歩いていける。街灯のように歩ける道を照らしてくれるひと、たち。

 

二階堂くんがいてよかったなあと心からおもう。あの夏が暑くてよかったし、青空がいい加減じゃなくてよかった。同年代に切磋琢磨できる人がいるだけでずいぶん人生の硬度は変わってくるんだなあと改めて思った。二階堂くんが会える距離にいてよかった!磨いてくれるひと。

 

この作品、いわゆるモブ、がひとりもいないのがすごい。ひとりの人生も残らず気になってしまう。知りたい。どこで生まれてどうやって育ってどうして将棋に出会って今、そこにいるのか。きちんと描かれる。それ、今までのすべて、ひいてはその人の人生が、一手にこめられている。

小さな駒が盤の上に置かれる時、ひとつまた歯車がまわる。そんなさまをありありと見せられる。

生きるしかない、とおもう。この人たちの人生を見つめて、自分の人生を見つめて、生きる、しかない。

 

 

・・・

 

 

そんな話のね、主人公、桐山零くんを、神木が演じてるんです。生きるか死ぬかを記憶がない中彷徨って、今ああして、立っている神木が。

神木のどこがどうで、なんてもう、話すことすら野暮なんじゃないかとおもう。ひとそれぞれのあの人の見え方があるだろうと思うし、結局神木が生きていてよかったにたどりつくので(……)、わたしはもう胸に秘めることにする。すきしかないんだもん。

神木、限りなく空に近い透明だとわたしは思っている。そして、もう、ずっとわたしのいちばん星なんだと、確信してる。

 

 

2017年3月18日、春の歌がぴったりだ。暖かい陽に包まれている日。季節にふさわしく、気高くありたい。自分に対して。自分だけでも。幻なんかじゃない今日をわたしは生きたい!

 

公開おめでとうございます!!ひとりでもたくさんのひとの目が、零くんの目を見て、自分の目に零くんの人生を映してもらえますように!